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神宮の歴史

御鎮座の歴史
天孫降臨以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10代崇神天皇の御代、御殿を共にすることに恐れ多いと思われた天皇は、天照大御神をふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命は大和の笠縫邑[1]に神籬[2]を建てて大御神をお祀りしました。
- [1]笠縫邑とは現在の奈良県桜井市と考えられ、檜原神社や多神社などが比定地として挙げられます。
- [2]神籬とは神霊の依り代となる施設のこと。四方に青竹や榊を回らし、中央に幣を取り付けた榊を立てます。
その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。
『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都に近い傍国で、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。
このように天照大御神は永遠の御鎮座地を伊勢に得られたのです。これが二千年前にさかのぼる、皇大神宮御鎮座の歴史です。『皇太神宮儀式帳[3]』には豊鍬入姫命と倭姫命のご巡行地14カ所の記載があります。
- [3]皇太神宮儀式帳とは延暦23年(804)宮司大中臣真継らが神祇官に提出した上申文書。祭儀、鎮座の由来などについて記した重要な神宮資料です。
- 1. 美和御諸宮
- 2. 宇太乃阿貴宮
- 3. 佐々波多宮
- 4. 伊賀穴穂宮
- 5. 阿閇柘殖宮
- 6. 淡海坂田宮
- 7. 美濃伊久良賀波乃宮
- 8. 桑名野代宮
- 9. 鈴鹿小山宮
- 10. 壱志藤方片樋宮
- 11. 飯野高宮
- 12. 多気佐々牟江宮
- 13. 玉岐波流礒宮
- 14. 宇治家田田上宮
参宮の歴史
古来、神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りするところから、天皇以外が幣帛[1]お供えすることを禁止した私幣禁断[2]という制度がありました。
しかし、この制度によって参拝までも禁止されたわけではなく、神嘗祭などの奉幣に差遣された勅使[3]のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに広げ、次第に民衆に神宮の存在が知れわたったと考えられます。
- [1]幣帛とは神々への捧げものの総称です。神宮では五色(青・黄・赤・白・黒)の絹の反物などがお供えされます。
- [2]私幣禁断とは天皇以外のお供えを禁止したこと。三后や皇太子がお供えする場合も天皇の許可を要しました。
- [3]勅使とは天皇が差遣する使者。現在、神宮には祈年祭、神嘗祭、新嘗祭に差遣されます。
『大神宮諸雑事記』の承平4年(934)の条には神嘗祭の参向者が千万人に及んだ記載があり、これは勅使の随行者が大勢いたという記録ですが、鎌倉時代の『勘仲記』には弘安10年(1287)の外宮遷宮に「参詣人幾千万なるを知らず」とあります。幾千万とは数量が多いという意味で、これをみると少なくとも鎌倉時代中頃には多数の参拝者があり、時代が下るにつれて増えつつあることが伺えます。
全国に伊勢信仰が広がる中で、大きな功績があったのが御師と称される人々です。御師は様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とし、仏教寺院の師檀関係にならって全国に担当の地区を設け、檀家を持ちました。毎年檀家に赴いてはお神札の頒布と祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をし御神楽を行いました。江戸時代には二千人あまりの御師が活躍し、その館も外宮方面だけでも六百軒あったともいわれています。また、『外宮師職檀方家数改帳』という檀家数調べには4,218,584もの檀家が記載されており、これは当時の総戸数の89%に上ります。
明治時代になると御師制度は廃絶されましたが、参拝者の神宮崇敬の念は変わりませんでした。今日でも神宮周辺では北は北海道、南は九州まで日本中のナンバープレートを付けた自家用車を見ることができます。そして、国内だけでなく世界中から訪れる人々が、年々増える傾向もあります。









