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多賀宮
- 御祭神
- 豊受大御神荒御魂
豊受大御神の「荒御魂」を
お祀りする外宮第一の別宮
多賀宮は、外宮に所属する四別宮のうち、第一としています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。ご祭神は、豊受大御神の荒御魂。荒御魂とは、格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを「荒御魂」とたたえています。
- 御鎮座地
- 御池にかかる亀石を渡り、98段の石段を上った小高い丘の上に鎮座します。
多賀宮の由緒と沿革
多賀宮は古くは「高宮」とも称され、延暦23年(804)の『止由気宮儀式帳[1]』に「高宮一院等由気太神之荒御玉神也」と記されています。小高い丘の上にご鎮座されることからそのように呼ばれたと考えられます。
- [1]止由気宮儀式帳とは延暦23年(804)豊受大神宮禰宜が神祇官に提出した上申文書。祭儀、鎮座の由来などについて記した重要な神宮資料です。
多賀宮は今から約1500年前、第21代雄略天皇22年に天照大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌都神として迎えられ、豊受大神宮が創祀されたと共に伝えられています。外宮には多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮 の四別宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮儀式帳』および『延喜式[2]』に記載され、他の別宮が後年に宮号宣下[3]されたことと比べると、別宮として特別視されています。
- [2]延喜式とは平安時代中期に編纂された古代法典。巻四には神宮のことが記されています。
- [3]別宮の「宮」は宮号といい、宮号宣下は天皇から宮号をいただくことです。
お祭りは正宮に準じて行われ、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮につづき勅使[4]が参向して幣帛[5]が奉られます。また、20年に一度の式年遷宮が、第一別宮のみ正宮と同年に斎行されることからもその重要性がうかがえます。
- [4]勅使とは天皇が差遣する使者。現在、神宮には祈年祭、神嘗祭、新嘗祭に差遣されます。
- [5]幣帛とは神々への捧げものの総称です。神宮では五色(青・黄・赤・白・黒)の絹の反物などがお供えされます。
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平成25年10月 式年遷宮奉幣の儀 参進する大宮司以下神職 -
神嘗祭奉幣の儀 勅使が参向されて幣帛が奉られます
土宮
- 御祭神
- 大土乃御祖神
山田原の神を祀る
唯一東向きの別宮
ご祭神は、大土乃御祖神。古くから山田原の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しました。
土宮の付近は式年遷宮山口祭、御船代祭の祭場となります。
- 御鎮座地
- 御池にかかる亀石を渡り、右側に広がる深い杉木立の中に鎮座します。
土宮の由緒と沿革
土宮は、古来外宮ご鎮座の山田原の守護神として崇敬されてきました。延暦23年(804)の『止由気宮儀式帳[1]』には「大宮地神」と記され、長徳3年(997)の『長徳検録』には外宮所管の田社32前の1座として「土御祖神社」の名を見ることができます。 しかし、田社とは今でいう末社にあたり、古代においては別宮ではありませんでした。
- [1]止由気宮儀式帳とは延暦23年(804)豊受大神宮禰宜が神祇官に提出した上申文書。祭儀、鎮座の由来などについて記した重要な神宮資料です。
大治3年(1128)に宮川堤防の守護神として別宮に昇格しましたが、田社から別宮の地位に昇格したのは特別な理由があったものと推察されます。
現在、市街地の西を流れる宮川は、かつて幾筋かに分岐し、今の市街地も流域にあたりました。当時は治水技術も発達しておらず、氾濫による被害が相次ぎ、地域住民にとって宮川治水の感心は高く、土地の守護を司る大土乃御祖神に対する祈りは切なるものがあったことでしょう。また、外宮の祭祀を行う上でも洪水は支障をきたしたと考えられます。そのような状況の下で宮川堤防の守護神ということに重きが置かれ、大治3年に宮号宣下[2]され、別宮に昇格しました。
- [2]別宮の「宮」は宮号といい、宮号宣下は天皇から宮号をいただくことです。
さて、他の別宮が全て南面するのに対して土宮だけが東面しています。保延元年(1135)のご造営の際もこの点が問題となり、朝廷においても十分検討されましたが、結局は従来通り東面に建てられることになりました。これについては南面に建てれば正宮を後にするとか、地勢の便宜上の理由に拠るとか、古来種々論じられてきましたが、詳らかにしません。但し、理由の如何にかかわらず、東向きにご鎮座するということは外宮ご鎮座以前にさかのぼり、古くからの姿を残したものといえます。
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土宮 -
平成17年9月 土宮前を祭場として斎行された式年遷宮御船代祭
風宮
- 御祭神
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- 級長津彦命
- 級長戸辺命
内宮の風日祈宮と同様に、
「神風」を吹かせた
風雨の神を祀る別宮
ご祭神は、風雨を司る級長津彦命、級長戸辺命です。雨風は農作物に大きな影響を与えますので、神宮では古より正宮に準じて丁重にお祀りしています。
- 御鎮座地
- 御池にかかる亀石を渡り、多賀宮へ上る石段の左側に鎮座します。
風宮の由緒と沿革
風宮は、古来風社と称しておりました。しかし、『止由気宮儀式帳[1]』、『延喜式[2]』には記載がなく、長徳3年の『長徳検録』に初めて「風社在高宮道棒本」と記され、多賀宮へ続く参道沿い、杉の木の本にあるお社であったと考えられます。
- [1]止由気宮儀式帳とは延暦23年(804)豊受大神宮禰宜が神祇官に提出した上申文書。祭儀、鎮座の由来などについて記した重要な神宮資料です。
- [2]延喜式とは平安時代中期に編纂された古代法典。巻四には神宮のことが記されています。
それが内宮別宮の風日祈宮と同じ様に、蒙古襲来の際、ご神威によって猛風が起り、襲来した敵軍10万の兵を追い返して、未曽有の国難をお救いになったご霊験に応えるべく、正応6年(1293)に別宮に昇格しました。その経緯は『増鏡』に記されています。
元来、風宮は風雨の災害なく稲を中心とする農作物が順調に成育するように祈りが捧げられるお社でしたが、元冦以来国難に際しては神明のご加護によって国の平安が守られるという信仰が加わります。
幕末になると、欧米列強諸国による東洋進出がはじまり、日本もその侵略の危機に再び遭遇することになり、その際には中世以来の信仰は再度喚起され、朝廷は文久3年(1863)5月に15日間の攘夷御祈願を風宮と風日祈宮でされました。



















