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皇大神宮(内宮)正宮 皇大神宮こうたいじんぐう

御祭神
天照大御神あまてらすおおみかみ
御鎮座
垂仁すいにん天皇26年(紀元前4年)
正宮 皇大神宮(こうたいじんぐう)
正宮 皇大神宮(こうたいじんぐう)
正宮 皇大神宮(こうたいじんぐう)
正宮 皇大神宮(こうたいじんぐう)

皇室の御祖神であり国民の総氏神
「天照大御神」をお祀りする正宮、
正式には「皇大神宮」

神路山かみじやま島路山しまじやまの麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。
今から2000年前、皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡やたのかがみをご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

域内マップ

皇大神宮の由緒と沿革

わが国最初の正史『日本書紀にほんしょき』によると、天照大御神はお生まれになった時、「光華明彩ひかりうるわしく六合あめつちの内に照りとおらせり」と称えられ、この上なく輝かしい存在として、また神々の世界を治める日の神としても伝えられています。
高天原たかまのはら[1]にいらっしゃる大御神は皇孫瓊瓊杵尊ににぎのみことをこの国にお降しになる際に、

豊葦原とよあしはら千五百秋ちいほあき瑞穂国みずほのくには、子孫うみのこきみたるくになり。よろしく爾皇孫いましすめみまきてしらせ。行矣さきくませ
宝祚あまつひつぎさかえまさむこと、まさ天壌あめつちきわまかるべし。

と、この国は天地と共に永遠であるとの祝福のお言葉をお与えになりました。また大御神は宝鏡を授けられ、「この鏡は私を見るがごとくにまつれ」と命じられました。さらに高天原でお育てになった稲穂を授けられ、米をつくる暮らしが、この国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられました。この御祝福の言葉は「天壌無窮てんじょうむきゅう神勅しんちょく[2]」と呼ばれます。

  • [1]高天原とは『古事記』などの日本神話で天津神あまつかみが住む天上界をさします。
  • [2]神勅とは神様のお告げや命令のこと。「天壌無窮の神勅」、「宝鏡奉斎ほうきょうほうさいの神勅」、「斎庭稲穂ゆにわのいなほの神勅」を三大神勅といいます。

さて、瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡やたのかがみ[3]と呼ばれ、天皇が天照大御神をお祀りするご神体となっています。八咫鏡は代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていましたが、崇神すじん天皇の御代になるとお側でお祀りすることに畏れを抱かれ、皇居を出られ、大和の笠縫邑かさぬいのむら[4]神籬ひもろぎ[5]を立ててお祀りすることになりました。

  • [3]八咫鏡とは天照大御神から皇孫こうそんに授けられた神鏡しんきょう八坂瓊勾玉やさかにのまがたま草薙剣くさなぎのつるぎをあわせて三種の神器と称し、皇位の御璽みしるしとされます。
  • [4]笠縫邑とは現在の奈良県桜井市と考えられ、檜原神社ひばらじんじゃ多神社おおじんじゃなどが比定地ひていちとして挙げられます。
  • [5]神籬とは神霊のしろとなる施設のこと。四方に青竹やさかきを回らし、中央にぬさを取り付けた榊を立てます。

そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことが大御神をお祀りしていましたが、垂仁すいにん天皇の御代に、倭姫命やまとひめのみことが新たに大御神をお祀り申し上げるにふさわしい地を求められることになりました。倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られた後、伊勢の国の度会わたらいの地、宇治の五十鈴の川上に到られ、大御神のお教えのままに「やしろ」をたててお祀り申し上げることになりました。今からおよそ2000年前のことです。やしろは社とも書き、しろという意味で、お祭りに際してその都度新たにたてられる建物のことです。神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことと考えられています。20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まりました。

正宮 皇大神宮
正宮 皇大神宮

第六十三回神宮式年遷宮 20年に一度、天照大御神に新宮へお遷りいただくわが国最大のお祭りが始まります

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