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神宮の歴史・文化

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御鎮座の歴史

天孫降臨以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10代崇神すじん天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことは大和の笠縫邑かさぬいのむら神籬ひもろぎを立てて大御神をお祀りしました。

その後、第11代垂仁すいにん天皇の皇女倭姫命やまとひめのみことは豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。

『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではあるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。

このように天照大御神は永遠の御鎮座地を伊勢に得られたのです。これが二千年前にさかのぼる、皇大神宮御鎮座の歴史です。『皇太神宮儀式帳こうたいじんぐうぎしきちょう』には豊鍬入姫命と倭姫命のご巡行地14カ所の記載があります。

倭姫命ご巡行の伝承地
  • 美和御諸宮みわのみむろのみや
  • 宇太乃阿貴宮うだのあきのみや
  • 佐々波多宮ささばたのみや
  • 伊賀穴穂宮いがのあなほのみや
  • 阿閇柘殖宮あへつみえのみや
  • 淡海坂田宮おうみのさかたのみや
  • 美濃伊久良賀波乃宮みののいくらがはのみや
  • 桑名野代宮くわなののしろのみや
  • 鈴鹿小山宮すずかのおやまのみや
  • 壱志藤方片樋宮いちしのふじかたのかたひのみや
  • 飯野高宮いいののたかみや
  • 多気佐々牟江宮たけささむえのみや
  • 玉岐波流礒宮たまきはるいそのみや
  • 宇治家田田上宮うじのやたのたがみのみや

参宮の歴史

古来、神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りするところから、天皇以外が幣帛へいはくお供えすることを禁止した私幣禁断しへいきんだんという制度がありました。
しかし、この制度によって参拝までも禁止されたわけではなく、神嘗祭などの奉幣ほうへいに差遣された勅使ちょくしのお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに広げ、次第に民衆に神宮の存在が知れわたったと考えられます。

「伊勢名所図会」玉蘭斎貞秀 神宮徴古館蔵

大神宮諸雑事記だいじんぐうしょぞうじき』の承平4年(934)の条には神嘗祭の参向者が千万人に及んだ記載があり、これは勅使の随行者が大勢いたという記録ですが、鎌倉時代の『勘仲記かんちゅうき』には弘安10年(1287)の外宮遷宮に「参詣人幾千万なるを知らず」とあります。幾千万とは数量が多いという意味で、これをみると少なくとも鎌倉時代中頃には多数の参拝者があり、時代が降るにつれて増えつつあることが伺えます。
全国に伊勢信仰が広がる中で、大きな功績があったのが御師おんしと称される人々です。御師は様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とし、仏教寺院の師檀しだん関係にならって全国に担当の地区を設け、檀家だんかを持ちました。毎年檀家に赴いてはお神札の頒布と祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をし御神楽を行いました。江戸時代には二千人あまりの御師が活躍し、その館も外宮方面だけでも六百軒あったともいわれています。また、『外宮師職檀方家数改帳げくうししょくだんかたかすうあらためちょう』という檀家数調べには4,218,584もの檀家が記載されており、これは当時の総戸数の89%に上ります。

「伊勢参宮 宮川の渡し」歌川広重 神宮徴古館蔵

明治時代になると御師制度は廃絶されましたが、参拝者の神宮崇敬の念は変わりませんでした。今日でも神宮周辺では北は北海道、南は九州まで日本中のナンバープレートを付けた自家用車を見ることができます。そして、国内だけでなく世界中から訪れる人々が、年々増える傾向もあります。

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